はじめに
世の中にはいろいろな言語がある。英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、オランダ語、ヒンディー語、中国語、日本語、…。あまたの言語はそれぞれに文法があり、それぞれの単語があり、たとえば英語やドイツ語が同じゲルマン語派にくくられ、似たような文法や単語や、要するに似たようなその言語感覚が認められるようなことはあっても、文法も単語も同じならそれは同じ言語なわけで、そしてそれぞれの言語を学ぶには、毎度腹をくくって勉強せねばならぬとされている。
もちろん言語学の明らかにする共通性や抽象的構造もあるし、諸氏各々の勉強の工夫はあるだろう。そうやって抽象的に言語を捉えることができ、またその抽象的な構造にたいしての勉強法を確立できるほど、マルチリンガルの道が広がるのは明らかである。
たとえば冒頭で述べたように、英語やドイツ語は同じゲルマン語派にくくられ、両者には類似や共通の構造が認められる。またスペイン語やフランス語は同じラテン語派にくくられ、スペイン語を学べばフランス語は簡単だといわれがちである。また特に西欧の諸語の単語は混在しており、それならまずラテン語を学ぶのが手っ取り早いといわれることもある。
筆者は言語学に明るくないので、もちろんいずれ勉強せねばとは思うが、とりあえず今はロクに例を挙げられないが、とにかく「~語派」という系統的な分類や「SVO、SOV」などの文法上の分類からも、言語学習のショートカットを示唆するところは大きく、一般にただマルチリンガルを称したいだけなら、その系統樹のなかの近隣の言語を学ぶのがよいとされている。
さていきなりだが、言語には民族が対応し、民族には文化が対応するのが一般的だ。もちろん言語を学べばその民族になるとは限らないように、それぞれは完全に対応するわけではないだろうが、一般には言語あるところに民族があり、民族があるところに文化がある。つまり言語は文化を示唆する。それぞれの言語には言語的文化と呼べるものがあるはずであり、その言語的文化の類型というのがあるのではないか。
たとえばチョムスキーの獲得言語という概念がある。(知らないので省略、本を読むべし)
言語的文化の類型
では筆者の思いつきを披露しよう。もっと明快に学問的な形で整理できればうれしいが、まだ思いつかないので、想像あるいは妄想をここに垂れ流すことにする。
まず言語的文化は共同体的なもので、「全体性、部分性、情緒」というパラメータがある。
まず「全体性」というのは共同体的全体性であり、共同体の単位の組み合わさり方でいわば、フレームワークであるといえる。
つぎに「部分性」というのは共同体の部分の、その単位のあり方であり、いうならばそこに属する個人がいかにあるかというものである。
さいごに「情緒」というのはそれぞれの単位の結合の一技術であり、おそらく共同体を抜きにしても考えられるものだと思う。
部分が組み合わさって全体がある、その部分の結合の技術の一つの情緒があると考えればよいだろう。
そして「全体性、部分性、情緒」はそれぞれ2種類に分類され、つまり言語的文化の類型は8つ(= 2x2x2)あると考える。
全体性
まず全体性には「社会」と「世間」があると考える。
社会とは共同体のその目的が創造あるいは破壊であり、つまり現実を絶対的に変化させるものである。
世間とは共同体のその目的が配置でありデザインであり、つまり現実を絶対的に変化させず、配置を変えることで、質的な変化を狙うものである。
デザインは現実を変えないから価値がないという疑問には、知らないものは存在しないという、屁理屈のような問答で反証できる。もちろん知らないものが間接的に自分に貢献することはあるだろうが、知らないものが、それを知ったときの喜びを与えることはできない。
ないものを配置することはできない。また配置が酷いとものをつくっても仕方ないのは、倉庫で眠る食料品が粗大ゴミでしかないことからも容易にわかる。
つまり社会と世間は、生産から感受性までのあいだに、「社会 -> 世間」という順番をとり、こうみれば社会のほうが基礎的で必要な気もするが、もちろんそちらが絶対的に価値があるとはかぎらない。親がいなければ子供はいないが、親のほうが絶対的に価値があるとはかぎらない。
部分性
つぎに部分性には武と文があると考える。
武とは目的合理性の貫徹であり、その目的 X への合理性をつねに絶対的なモノサシとして採用するということだ。
文とは not 武 であり、目的を絶対視しない、道草を食うことにも価値があるという考え方である。
思うに、武というものは歯車のようなもので、機械の歯車はその求められた機能により絶対的に評価され、仮にそれぞれの歯車に独自の機能があっても、たしかにそれは面白いが、やはり歯車としては設計図において求められた機能しか評価されないのである。
世の中にはさまざまな価値があり、その一部の価値を神格化するのは不自然である。もちろんそれは目的合理性であり、武の立場からみれば、まずそれぞれは目的合理性を求めないとどうにもならないだろうと思うだろうが、X を追い求めながら X の else もふんわりと追い求めたほうが、総合的にみれば効率のよいこともあるわけで、要するに文の合理性というのもあるはずである。
日本はおそらく武の国で、目的合理性を軽くみる人間は、やる気のないやつだとみられ、歯車的な安定がなければまるで信用されないので、文の美学というのが日本人にはいまいちわからないのが実際だろう。中国や韓国は文の国であると思うから、いわゆる隣国問題の一つには、こうした文化類型の大枠の違いというのがあるかもしれない。
情緒
さいごに情緒には集中的なものと分散的なものがあると考える。
集中的情緒とは、Xへの収束であり、集合の縮小であり、より対象に集中する情緒であるといえる。
たいして分散的情緒とは、Xからの発散であり、集合の拡大であり、より対象から分散する情緒であるといえる。
分散的情緒における X は分散の拠点であるが、同時に分散的情緒の対象であるから、別に X は肝心でなくて、たとえば「ノリ」という概念が、しばしば痴呆的で非特定的な友好を示すように、その対象はやはり分散的で、もちろんノリの悪いオタクは嫌われるように、分散的情緒の対象の制約はあるはずだが、基本的に拡散的で発散的で開放的な交友なのである。
集中的情緒は X の特定がかなり肝心であり、「for you」というときの「you」を抽象的な存在として捉えてしまうと、相手も気分がよくないわけで、つまり X はなんであるかというところに一つの情緒的な妙があるだろうと思う。
では具体的に諸々の言語はどの類型に属するだろうか。これも筆者の思いつきにすぎないが、つらつら書こうと思う。
日本語
まず日本語は「世間、武、集中的情緒」の文化だと考える。
日本文化が社会的でないのは、文化的であることが一般的に非社会的であり、その逆もしかりで、きわめて文化感受性に乏しく反知性的で、運動能力にかぎっては優れる連中が、スクールカースト云々の、つまり社会的序列の頂点に君臨しがちなのをみても明らかであり、またモーレツ社員と称される、バイタリティに溢れ、また暴力的で、いわゆる「デキル男」と呼ばれる人種が、仮に森鴎外を愛読し正当な文化的感覚を身につけていれば驚かれるように、文化と社会は相補的なものと思われがちで、つまり日本文化は世間的なのだ。もちろん森鴎外は日本社会の頂点にも君臨していたから、両者はまったく相反するものでなく、それらは循環し、「もつもの」と「もたざるもの」にわかれるのが実際かもしれない。
日本の正当な天才といえば、たとえば夏目漱石にみるように、しばしば厭世的で非暴力的で、その感受性に訴えるところは優れても、実際に力強く現実を創造するイメージが乏しいのは、やはり日本文化の非社会性、つまり世間性の証明であるといえる。
また日本は武の国である。武士というのは言語的文化とは別物であると思うからとりあえず置いておくが、たとえば都市デザインというものを考えるとき、この街路樹は街の緑で、このショッピングモールは住民がモノを揃えるところで、この公園は開放的に子供が遊ぶところで、… とだいたいそれぞれの機能に目的があり、その目的合理性以外は捨象されてもかまわない前提で存在することは、しばしばその目的を忘れた施設の異様なチープさ、サイドメニューばかり充実させる飲食店のその文化的な軽薄をみれば、かなり思うところが大きいと思う。
ラーメン屋がラーメン屋でなくなるならば撤退するべしだ。これは大多数の日本人の感覚に膾炙するものだと思うが、はたして人類普遍の常識であるかは (中国をみてから書く)
そして日本は集中的情緒、つまり性愛の国である。最近はノリとかエンタメとかウェイ系とかのような分散的情緒が世相を席巻しているようにみえるが、あれが文化的に邪道なのはおそらく皆が思うところで、やはりヤクザがその暴力性などから世間の落伍者の烙印を押されても、その妙な性愛的感覚のおかげで一種の文化愛護者とみなされることもあるように、身内ばかり贔屓するような収束的な愛情というのは日本人の情感にふれるものであり、その非平等的でローカルなベクトルに情感の本質があり、万人受けというのが常に軽薄で、やはりアメリカ人のエンタメ志向や老若男女の垣根を壊していく精神を野蛮にかんじるのは、自然な日本人の感情だと思う。もちろんそれは民族的な色眼鏡からの視点であり、絶対的であるとはかぎらないが、民族の色眼鏡で万物を眺めるのは健全であると思う。
西洋と東洋
一般に東アジアは世間的で、西洋は社会的だと思う。しばしば東洋と西洋が精神と物質の対比で語られ、極貧のなか文学をたしなむ東洋の聖人と、荒涼とした砂漠から天才的な閃きとバイタリティで実際的なものを創造する英雄の対比が、一般的な東洋と西洋の対比と考えられるように思う。それは結局、世間と社会の対比であり、もちろんどちらが優れているわけではなく、両者は相補的なものであり、この意味で日本は西欧と競合にならず、相補的に協力できる可能性があるのだから、幸運とみるにこしたことはない。
そしてラテン系は「社会、武、性愛」でゲルマン系は「社会、武、友愛」ではないか。
西欧人が社会を重視するのは、科学のその創造性や、日本人からヨーロッパをみたときの、そのDQN具合、つまり感受性的野蛮に驚くことが多いように、デザインの感覚は発達しておらず、むしろ「sk8er boi」のMVの熱狂が端的に表現しているように、西欧人の熱狂といえば、みるからにおぞましくて、実力的で、バイタリティに溢れ、技巧的で、そして創造的であるという印象がある。
また西欧は「武」を重視するというのは、たとえば西欧の国々が代表的な「文」の国だと思われる中国を批判するときに、時間を守らない、約束を守らない、納期も守らない、感情的に契約を変えるなど、つまり目的合理性を貫徹しないところへの批判が多いところから推測できる。中国は「文」の国なのだから歯車の美学は求めてはいけない。また同様の批判をされることが多いロシアもまた「文」の国なのではないかと思うがどうだろう。
またイタリア人がナンパで有名で、西欧の性の歴史といえば、だいたいがフランスやイタリア文化が紹介されるように、性そして性愛において、ラテン系に軍配があがるのは、常識の語るところで、またドイツ人はフランス語で口説くといわれるのが象徴的であるように、また英語文化たるアメリカの過剰にみえるほどのエンタメ志向と溢れんばかりのリビドーは性愛的野蛮を示唆し、アメリカ人の大人数志向は分散的情緒を示唆するといってよいだろう。
こうみれば日本人は「武」において西欧と親和性があり、また「性愛」においてラテン系と親和性があるから、西欧流の社会的感覚さえ身につければ、ラテン系の国々をまるで自民族のように理解することは不可能でないかもしれない。アメリカというのは多民族国家で、しかも英語で、またあらゆる面で日本とは親和性が低いから、丸々理解しようというのは無謀であるとしか思えない。
中国語
また中国は「世間、文、性愛」の国だと思う。中国がデザイン的で、精力に溢れる白人黒人を野蛮であると軽蔑しがちなのは有名な話で、また日本の演歌がヒットし、古い中国人が演歌を覚えており、しばしば懐かしんで歌うこともあるといわれるように、世間という抽象でみれば東アジアは疑いなく仲間であり、杜甫や李白の卓越した芸術性は、日本人の競争心を刺激するところでもある。
また中国は「文」の国である思うのは前述したとおりで、(中国をみて書く)
(中国の性愛)
朝鮮語
日本人は隣国問題というのを抱えており、とくにお隣の韓国や北朝鮮との摩擦は酷いものである。K-POPに惹かれる若者と、あの異様に性的でキャッチーなアイドル集団を嫌悪する保守的な日本人の両者は日本における韓国への愛憎の表裏を示している。
韓国人は中国人よりも一つ難解に思える。激しい怒り、全体性志向、異様にキャッチーで流行的な文化、象形文字のようなハングル文字、… そしてどこか恥の感覚に欠けるようにもみえる。しかしそれは日本人からみれば文化的劣等でも、実際はただ類型が違うだけかもしれない。そう韓国人は友愛的なのだ!激しい怒りは性愛的野蛮を意味し、全体性志向は分散的情緒の産物で、キャッチーさもまた分散的感覚の得意とするところで、ハングル文字の「象徴性」も分散的情緒の一つの特徴である。
日本人はつい韓流アイドルのあのセクシーな踊りを、性的卓越あるいは性愛的野蛮だと捉え、どちらに傾くかで評価が割れる。若者はただエロいものをそのエロさで称揚し、ネトウヨはやれ品がないだ、野蛮だと攻撃する。
しかし性愛というものがただの分散的卓越の前振りにすぎず、野蛮という抽象性がエンタメの価値をあげるならば、見方が変わってくる。実際たとえば TWICE の MV のダンスや歌はきわめて質が高く、日本のアイドルの機械的で商業的で、その虚栄心が透けてみえる振り付けに比べれば、やはり直観的で情感的であるというのが、「性愛」という色眼鏡を外せばみえてくると感じる。
おわりに
文化類型というのはどこか左脳的で、文化という無尽蔵の人間性を、ロジカルに類型でわけてしまうのはどこか抵抗があるのは筆者もそうだが、やはり有効なモデルというのはあるに越したことはないわけで、本文の8類型がどれだけ正確で有効な分類かはもっと勉強せねばわからないが、個人的にはなかなか本質的な洞察ではないかと思う。
もちろんこれは大枠の分類にすぎないわけで、これで文化のすべてがわかるはずはとうていないが、逆に大枠のレベルでわかることは明らかにするのが、建設的な思考というものだと筆者は思う。
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