安部公房のエッセイの「死に急ぐ鯨たち」を読んだ。安部公房は難解なようで、平易な文章であり、労少なく功多い知性であるから、自分のような心身の壊れた人間にはありがたい作家である。
安部公房はいわゆる世間の常識に反する文章を書くが、実はもう一段上の常識に属するのではないかと思わされることが多く、たとえば儀式というのは人間的なものだが、儀式を嫌う精神もまた人間的なものだと、まるで人間一般の常識に訴えるような思考は、でたらめな反常識ではなく、やはりより一般的な常識につうぜんとするものであり、だから世界的な名声を獲得できたのかなとも感じる。
技術について
「人間は技術的成果に満足感をおぼえるだけでなく、プログラムの完結自体に深い喜びを感じることさえあるのです。」(p.14)
人間は成果それ自体だけでなく、それを生みだすプログラムの完成それ自体にも深い喜びを覚えるという。成果とアルゴリズムの対比は、しばしば安部公房が話す、精神における条件反射と言葉(=条件反射の条件反射)につうずるものがある。言葉というのは間接的で、媒介的なものであり、読書や会話などの言葉のやり取りそれ自体が喜びをもたらすというのは、どうも奇妙なものだが、アルゴリズムへの感動と同列にみるならば、その心理は日常に溢れていると認めざるおえない。言葉とお金というのは、財産へのインデックス性ということで共通すると思うが、お金をありがたがる心理はプログラムへの深い喜びにつうずるものだろうか。それは違う話か。(笑)
言葉によって開かれたプログラム
パブロフの条件反射で有名なように、動物というのはだいたい刺激と反射が単純に対応しているところが多く、また同じ条件反射がどの個体でもつうずるのだから、動物の精神というのは閉じたプログラムというべきで、それにたいして人間は、もちろん腱反射を筆頭に、条件反射で理解できるとこもあるし、ヤンキーやDQNなどの反知性的で、非言語的な連中は、だいたい量産性があり、野球をみせれば熱狂し、女をみせれば興奮し、ポルシェをみせれば感嘆するのはめにみえているが、言語的に深淵で緻密な精神をもつ人間ほど、反射的な反応が少なくなり、たとえば露出の多い女をみれば、その性的魅力、それにたいする性欲、露出にたいする道徳的批判、道徳的批判にたいする道徳批判、… など複雑で多角的な精神が意識の上にのぼり、時々の比率に応じてその出力は変わってしまう。もちろん一々考えるのは大変だからそれを制限する努力工夫もするが、複雑さに拠点があり、日用性のために単純さへの志向を併せもっているのがだいたいだから、やはり言語というのは元来のプログラムを改竄するものであり、それを安部公房は開かれたプログラムと表現しているのかと思う。
「まちまちなプログラムには、「群れ」の統一を失わせ、分散させる作用もあったでしょうが、それだけだとは思えない。…単なる分散ではなく、「群れ」の構造化がはじまるのです。」(p.21)
「群れの構造化」とは群れのシステム化とかその抽象化という意味だろうか。たしかに閉じたプログラムなら群れは閉じた群れそれ自体でしかないが、分散作用があれば構造の構造化が可能で、きわめて抽象的な構造を分散と統合を活用して、状況に応じて具体化することができる。構造の構造化は、アルゴリズムのアルゴリズム化にもつうずるもので、つまるところ思考の思考法につうずるものがある。
テレビの危険性
「テレビは簡単に疑似集団を形成してしまいます。… 上野動物園のゴリラのブルブル君でも、テレビでノイローゼを治したのです。」(p.27)
テレビには群れを形成する力があるという。たしかに野球に熱狂する人々は、テレビをつうじて一体感を獲得しているようにみえる。そのときはテレビをつうじた狂気的な集団化にすぎないが、いざ外に出てテレビをみた人と感動をわかちあえば、すでに集団化しており、仲間であったことを発見するかもしれない。
苫米地氏によれば、テレビには非常な洗脳の力があるらしい。あの刺激的な映像や音声は変性意識への誘導を容易にし、テレビに熱狂する人々は軽い洗脳状態に陥っており、もしテレビがイデオロギーを謳えば簡単に洗脳されてしまう状態であるというような話をしていた。
テレビの群れを形成する力が洗脳の力によるものなら、儀式化による疑似集団の形成だけでなく、いかような方向にも応用できそうだが、どうだろうか。まあだいたい中央集権的な機関が腐敗するのは世の常だろうから、地上波のテレビに良性の洗脳を求めるのは的外れかもしれない。
右脳と左脳 – 右脳閉塞症の日本人
日本語は母音優位で、それは左脳優位を意味するという。日本人は虫の声を左脳で聞くらしく、欧米人が右脳で雑音のように聞くのを対比し、しばしばそれは日本人は虫を対等にみており、つまり自然への愛を意味するのだと解釈されることもあるが、そもそも日本人は左脳優位で、虫の声すら左脳で処理しているだけかもしれない。
「あまりにもデジタル化した文学が、そのデジタル過剰のために見離されているだけかもしれない。」(p.38)
若者の活字離れはいつの時代も憂慮されるところで、まあ戦前は名前ぐらいは書けても、実質的には文盲らしき人が多かったというから、戦後しばらくは活字の普及や知識の庶民化が続き、だいたい1970 ~ 80 年代あたりに、若者の活字離れが憂慮されはじめたのが実態のようである。
まあ今は活字離れも深刻で、SNSにかじりつく女子高生や、ネットサーフィンで休日を潰す冴えない陰キャ男子は増えていても、地道に読書をする人間は、一定層はいるとはいえ右肩下がりではあるらしく、普通情報が氾濫するほどそれを選別する知性が必要だろうから、かなり危機的な状況だとは思うが、まあ反知性的であるほど、さらに反知性への欲求が強まるのは、ヤンキーやDQNの諸氏をみても明らかで、自分のような人間がつべこべいってどうにかなるレベルの問題ではない。
しかし安部公房は右脳閉塞症の日本人にとっては健全かもしれないという話をし、まあ今の世相をみれば流石に悲観的になるかもしれないが、たしかに、なにを読むか、或いはなにを読まないかも大事であり、そういう感覚は非言語的なところも大きいから、活字ばかりよんでも活字を極めることはできないという話もあると思う。梅棹氏いわく、知識は歩きながら得られる!
音楽は寝ながらウォークマンにかぎる
安部公房は日本人ではじめてシンセサイザーを購入したといわれるほど音楽への関心が強く、たしかに自分のような左脳偏重の人間に比べ、安部公房には豊かで右脳的な、アナログな世界を感じるのが本当に羨ましい。
コンサートで音楽を聴くのには批判的な口調が強く、なんといっていたか忘れたが、たしか儀式化云々の話や、俗な虚栄心を感じるという話をしていた気がする。そして寝ながらウォークマンで聴くにかぎるという言葉は、流石安部公房といわばかりの最先端の技術への完全な適応性を示している。
結局安部公房とか苫米地氏などは観念的にはずっとハイテクなことを考えていたわけで、ポっとウォークマンがでてきたり、スマホがでてきても、たいして驚くことはなく、老害のような言動をすることはないのだろう。老害とは時代への過剰適合から起こる現象で、抽象的な思考を愛し、その時々に上手く世相へ適合するような賢い人々は、老害にはなりにくいと思う。
おわりに
他にも面白い話はたくさんあったが、この辺で切り上げようと思う。ではでは!!!
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