量的な連続性と質的な断続性
一昔前にモノマネ芸人が流行ったことがある。いまも松本人志の真似をするJPが人気で、コロッケやホリなども、たまにの特番にでてくるが、一時はだいたひかるを筆頭に魑魅魍魎のモノマネ芸人が跋扈していた時期がある。
もちろんモノマネがその対象と等しいはずはないし、一般にはクオリティによるが馬鹿にしていると解釈するだろう。コロッケさんはクオリティが低いせいだろうが、それでも、いざ自分がやろうとすれば中々すごいことに気付く。
いくらモノマネ芸人が身なりを似せて声の高さや声色を似せても、たしかに似ている!となることはあるが、本人の堂々たる感動には遠く及ばず、笑いにしかならないのが常である。
逆に身なりや声はそれほど似ていないが、劇的に本人の質感に似ている人もいる。全然世代ではないので知らなかったが、上岡龍太郎さんを一度YouTubeでみたときに「HIKARUだ!」と思った。たしかに眼鏡でヤクザっぽい風貌は似ているが、時代も違えば歳も違い、声色も口調も違うのだが、その質感に非常に通ずるものを感じた。HIKARU氏が上岡龍太郎さんのファンなのかもしれないが、モノマネででる質感ではない気がする。
ある美しい青があるとき、その近傍の科学的にみればほとんど違いがない波長の色でも、まるで美しくないものにみえる、つまり質的には全く別物にみえるという。量的には連続だが、質的には断続している。量的に似ているもの隣り合うものが、質的に隣り合うとは限らないし、下手に小奇麗な人物画よりも下町の絵師の似顔絵の方がよほど質的に似ていることもあるのは、ただの一例にすぎないにしろ、やはり質的には断続していることが多いのではないか。
日本の格差社会
日本は格差社会である。たしかに収入的な格差は少なく、明快な階級もないのだが、例えばアメリカで収入の格差が酷いのは、収入とはある程度の水準を超えれば大したものではなく、一ステータスにすぎない、ステータスにすぎないからいくらハリウッドスターが天文学的なその収入を誇示しても、陽気な拍手喝采のうらに嫉妬や憎悪が渦巻いているにしろ、やはりそこまでのものではないという暗黙の了解があるという。
つまり金だけで格差を測るのナンセンスである。しかし他の属性を明快に測るのは難しい。ではなぜ日本が格差社会かといえば、格差を抑える手段がないのだから格差があるに決まっているのである。
自然にしていれば格差が広がるのは学校内の人間関係を観察しても明らかだろう。イケメンがいれば、その周りにイケメン或いはイケてる風の連中が集まる。もし僕のような陰キャが近づけば、睨まれ中傷され挙句には虐められる。そしてイケメンは美人で知的でおしとやかな彼女をつくり、また仲間にも恵まれ、それにより物や様々な価値が集まっていく。
たいして僕などはまず周りに人間が集まらず、物もなく、ただ自分の本性を抑圧して被虐民の仮面を被って暮らさねばならない。その果てはストレスによる発狂であり、もし彼女がいればデブでブスの自他の境界が薄い病的に自己愛の強い女に決まっている。
そして結婚し次の代をみれば、イケメンは美人で知的な彼女とこどもをつくり、やはり顔の造形は整い溌剌と聡明で愛想もよく、また習い事で様々な技能を習得し、両親の愛情のある躾で立派な人間へと育っていく。当然学校でもスクールカーストの頂点で、友に囲まれ女に囲まれ一切の抑圧もストレスもなく、ただ一度きりの人生を謳歌する。
一方で僕と劣等な女との間のこどもは、ブスで不器用でなにをさせても出来損ないで、また貧乏な家庭のせいで何の投資も受けられず、学校では虐められ挙句には引きこもり、最底辺の蟲毒の中で一生の活力を浪費することになる。
これはミクロな話だが、日本にはマクロな構造がまるでないのは、官僚が私腹を肥やすのに腐心する有様をみれば明らかだろうから、結局ミクロな論理が人間関係の全体に適応される。勉強もスポーツも優れる美男美女とデブでブスで汗くさい二次元幼女の尻に興奮してペンライトをふる連中が同じ日本で同じ日本人として共存するのは不思議にみえるが、あの学校の格差の論理が何千年も続いてきた末路だと考えれば、自明に理解できる。
陰キャと陽キャ
陰キャと陽キャの違いとは、何千年にも及ぶ格差の末の圧倒的な遺伝子の優劣の差であろう。しかし、いくら遺伝子が違うとはいえ人間同士の差などそれほど大きくはないだろう。まして同じ教育をうけ、同じ画一的な環境で育った人間同士が、たとえ遺伝子の格差や学校内での格差で差を広げられたにしろ、実質的に大きな差があるのは一部の人種で、一般論でいえば陰キャと陽キャにそれほどの差はないはずである。どうして、ここまで差が付くのか。
たしかに陰キャと陽キャは量的には連続的であろう。50m走が 8 秒と 7 秒のとき 1 秒も差があるといわれるが、時速にすれば 22 kmと 25 km であり、たいした差ではないだろう。すくなくとも人権の有無を決別するほど致命的な差にはみえない。
容姿だって結果論的には完全な美醜の格差が存在するが、量的にみれば「数mm鼻が高い」「少し目が離れている」とかの誤差のような違いで非常な差が生まれる。もちろん圧倒的な美男美女や一方のブスもいるが、一般論ならば化粧で化ける女や整形で人生を変える人々をみるべし。
しかし例え鼻の数mmの高さの違いしかないにしろ、顔の美醜は結果がすべてであり、量的な解説で観念的に美醜を操作するのは野暮というものである。
また足の速さも勉強の点数だって、その本質は他人より優れることであり、いくら1,2点の差でも、他人に優れば勝ち組で、他人に劣れば負け組なのは、古代中国ですら劇的な選別試験で他人の優劣を問題にしたように、人と比べることの価値をナンセンスだと批判するのは人間性に反する発想だといわざるおえない。量的に連続的な少しの差でも、それにより勝ち負けの違いが生まれるなら質的には断続している。
同じ町でうまれ、同じ教育で育ち、同じ未来を描いた同級の友同士が量的には誤差にみえるような差で、人生の明暗がわけれらる。べつに批判しているのではない。量というのは質に至るまでの過程にすぎず、量的な差で人間に優劣をつけるのはバカげた話なのだ。
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